「赤城山」。

私は、赤城山(あかぎやま)が好きだ。
好き、といっても特に登山をする、というようなことを言っているのではない。
赤城山は、群馬県の中心部、関東平野の最北西のどんづまりに位置する。
この赤城山がとてもよく見えるところに、私は生まれ育った。
赤城山は、毎日その見え方が違う。
晴れた日、曇った日、春、夏、秋、冬。
また、1日のうちでも、その光の当たり具合によって、まったく表情を変える。
朝日にきりりと立つたたずまい。そして夕方、それも秋の紅葉が美しい時期のこの山の優美さは言葉にできない。「赤城山」という名称は、そのまるで赤く燃えるような姿から生まれた、とも聞く。
学校へあがった時から、私は毎日この赤城山を見て通学した。
晴れた日は、赤城が澄んでよく見える。
青空に切り取られた稜線が、「裾野は長し 赤城山」という上毛カルタ群馬県民なら百人一首並みに誰でも知っている郷土カルタ。)にある句どおりに、すーっと地上まで続くなだらかなラインを描く。
曇っている日は、まったくその姿が見えない時もある。
特に冬は、こちらが晴れていても、赤城には雲がかぶっていて全く姿が見えない時がある。
そんな時は「ああ、赤城は(雪が)ふってるな。」というのが地域のみなの合言葉になる。
そして、赤城おろし(山から吹き降ろす冷たく強い北風)に身を縮め、その風に逆らい、あるいは押されて走るように歩く。
「かざはな」と呼ぶ、山から吹かれてくる雪が舞い散ることもある。
赤城が見える地域の人で、赤城を嫌いな人はひとりとしていない。
そして、どの人も、「自分の家から見える赤城山が、いちばんきれいだ」と思っている。
私の実家から赤城が見えるのは、だいたい北西の方向だ。
赤城の稜線が、東西ともに美しく見える位置だ(と、私は思っている)。
しかしこれが、他の地域に住んでいる人から言わせれば、「否」。
前橋に暮らしている友人は、前橋から見る赤城がいちばん美しい、と言う。
しかし、私に言わせれば、赤城山頂の、いちばん西側の盛り上がっている部分が、少しばかり大きく見えすぎて、どうもバランスが悪い。
けれどもそんな話をすると、必ず皆で喧嘩になるので、まあまあの主張にしておく。


こうやって育った私としては、「山がない(見えない)」という生活が、どうも、どこにいても、息苦しいのである。
学生で川崎に4年いた時も、結婚して土浦に5年いた時も、そして今ここ千葉県柏市に引っ越して来てからも。
「背後に山がない」という生活は、どうしても誰かに「守られている」という感じがしないのだ。
山は、いつでもどんな時でも私を見守ってくれた。
毎日、見える姿かたちは変えながらも、いつも必ずそこにいて、「今日は、どうだい?」と声をかけてくれているように思えた。
そして、私がどこにいても、例えば群馬県内ならどこを車で走っていても、その赤城の形や位置で、「今私はここにいる」と確認できた、安心感があった。
そういった神様のような存在が、ここにはないのだから。


土浦にいた時は、まだよかった。少し離れたところに「筑波山」があって、ときどき目にすれば、私は少しでも救われた。
それでも、土浦に引っ越してきた当初は、私はよく夫にぐちをこぼした。
「ちょっと、小さいのよねえ、『よりどころ』にするには」。
すると夫は、言ったものだった。
「おい、地元の人に聞かれたら殺されるぞ(笑)。それに、筑波山は万葉の時代から詠まれた神の鎮座まします神聖な山じゃないか。」
ははは、その通りだ。そして、数年も住んでいる間に、次第に私は筑波山に愛情を感じるようになってきた。もちろん、赤城に対するそれほどには決して及ばないのだが。



そして、今。ここ柏からは、ほとんど、山は見えない。
360度、平野だ。(里山や坂など多少の起伏はあるが。)
いちばん近い山といえば、やはりなんと、車で1時間も離れてきたはずの、その筑波山なのである。
夫が通い、息子も通うことになる小学校の校歌にも「〜筑波山。」とかなんとかと歌われているという。
はあ。「赤城で育った」私としては、なんとも頼りなさ過ぎるのである。


それでも、息子はこの土地で大きくなる。
そんな息子はいったいこれからここのどんなことに心を奪われ、心のよりどころとしていくだろうか。
そもそも、大人になってそういった感情が芽生えることがあるだろうか。
「郷土愛」というようなものが、人生において本当に必要なものなのかどうか、そういうものを持っていない、という人にはわからないと言われる感情なのかもしれないあいまいな「思い」。
しかし、赤城山が私に教えてくれたことを、私は「この地域を良くしたい」という原動力に変えて、息子や娘のために何かできること、を何か、してやりたい、と思ってみたりするのである。