献花

私の祖父が、先月10月22日に亡くなった。
大正13年3月生まれ、享年83。
前日21日は日曜日で、「危篤」の知らせを受けて病院まで会いに行った。
おじいちゃんは酸素マスクをして、一日たった83カロリーの点滴しかうけられずにとてもやせてしまっていたけれども、もうろうとした状態の中、ときどき意識は保っている様子だった。
青白くなってしまった目を半開きにしながらも、深く、規則正しく呼吸している。
手を胸のあたりで振ったり、首を左右に動かしたりもしている。
お医者によれば、目は見えなくなってしまっているけれども、耳は聞こえているだろうとのことだった。
ゲンがおじいちゃんに会うのは初めてのことだった。
「おじいちゃん! のりこですよ!」
「おじいちゃん! ひまごのゲンキですよ!!」
と話しかける。
手を触ると、多少の温かさは残しているけれども、ひんやりと冷たい。
私はその手をにぎるようにさすり、ゲンの小さな指を近くまで持っていった。
すると次の瞬間、おじいちゃんの呼吸が荒くなり、見えない目を開くようにして首を傾け、手を私たちの方にさしのべた。そう、たしかに思えた。
私たちの声が聞こえて、「わかったよ・・」と、言っているようだった。



ユーキも一緒に行ったのだけど、ユーキはこの後、おじいちゃんのことを覚えていることができるだろうか。
サトカは無理かな…。無邪気に歌など歌ったりしている。



棺には、おじいちゃんが晩年の趣味にしていた習字や水墨画の書いたもの、筆、好きだった将棋の盤と駒、それから出兵で青年時代にかぶった水兵帽が納められた。
水兵帽は、ずっとしまってあったのを、最近になっておじいちゃん自身が出してきて、部屋のかもいにかけて置いていたのだそうだ。
キナリの、中心にイカリのマークのワッペンがついている水兵帽。
色あせていたけど、見ればきれいに大事にとっていたのだということがわかる。
志願兵で水兵になり、船に乗ったおじいちゃん。
「戦争はいけない」と言うのは簡単だけど、当時のおじいちゃんが「水兵になってお国を守る」ことを志し、敗戦後だって今に至るまで、口には出さなかっただろうけど、そんな若い頃の思い出を大事に心にしまっておいたんだろう、ということを私は切々と感じる。
戦後は土地をもらって農家をはじめたけどそう簡単には食べられず、家族を養うために電気屋などあちこちに働きに出て、最後には工務店をやり息子に継いだおじいちゃんの苦労をしのぶ。


お葬式でのあいさつは、長男である私の父がしていたが、低くゆっくり、ときおり声がふるえてしまうのを我慢しておさえるように話すような父を、背中越しに見るのははじめてのことだった。
お父さんたちが子どもの頃は短気ですぐ怒ったものだが、外向きには明るく、お酒やギャンブルも好きだったが、忍耐強く行動力があって、まじめな面もあり、仕事での怪我や晩年の病床でも決して弱音を吐く姿を見ることがなかった、というおじいちゃん。


私にとって、直系の親族を亡くして葬式に参列する、ということははじめての経験となった。
一緒に暮らしたこともある祖父だったから、今のところまだ折に触れては思い出してしまって、悲しさ、さびしさに身をたゆたえてしまう。
このことで私のこれからの人生観も変わり、毎日の生活の態度や生き方もまた変わってくるのではないか、という気もしている。
でも、そのうちお仏壇が入り、これまでとかわらず訪ね、お線香をあげるようになるのだ、と思うと、心が安らいでくるようだ。
おじいちゃんが生まれ、死んでいくまでの膨大な経験と記憶がすべて灰になってしまったと思うと、気の遠くなるような残念さというか、もっともっといろいろな話をしたかったな…というような後悔がある。
でも、今、目の前のゲンを見ると思うのだ。
おじいちゃんにもこんな頃があったのだと。
そして、自分の人生を生ききって、死んでいった人の荘厳さ、美しさを。
そしてまた、いつかは私だって、ゲンだって、そうなるのだ、ということを。
年は巡りめぐって回っていくのだ、ということを、自分がこれまで生きてきて今、いちばん実感している、ということなんだろう。