「遊びをせんとやうまれけむ、

戯れ(たわぶれ)せんとや生まれけむ。
遊ぶ子どもの声聞けば、
我が身さえこそ揺るがるれ」(だっけ?)




梁塵秘抄』の有名な歌。
いつも、私はこの歌を思い出す。
子どもの無邪気に遊ぶ姿を見る時。
くるくるくるくる、いろんなおもちゃを取り出して飽きもせず遊んでいたり。
何にもないところなのに、子ども同士で子猫のようにじゃれあっていたり。
「大人の私」は、不思議だなあと感じつつのまなざしでそれを見る。
大人の私は、「考えて」ものごとを進めてしまうので、とうていこの子どもらのようには遊べないから。
いつか、この子どもたちはこの「子ども」を卒業することを「私」はわかっているから、
少し冷めていて、そしてさみしい、複雑な気持ちで見る。
でも、それだからこそ、貴重なこの時間を、いとおしく見る。
そしてまた、「揺るがされる」「大人の私」とはいったい何だろう、と考える。
この歌の作者の気持ちをなぞるとすれば、それはどういうことだろう、と考える。



学生時代、一般教養で「哲学」を教えていた竹内整一先生という先生が、授業の中でときおりこの歌を挙げていました。
当時から、妙にそれは私の心に残りました。
卒業後、しばらく聞いていたその先生の「NHKラジオ 高校講座倫理」でも何ページ目かで先生はこのことを取り上げられていました。
先生がよく言っていたのは、「人生は、何か『目的』があって、そのために生きるものではない。今生きている『この時』をいちばん大事に生きるべきだ」ということでした(ええと、勝手に歪曲してないかな。)
今でも、やっぱりこのこともまた、時々思い出します。
記。