祖父のこと

3月のはじめに実家に帰った時、入院している祖父のお見舞いに行った。
祖父は、数年前に脳血栓で倒れて以来、自宅で寝たり起きたりの生活を送っていたのだが、最近黄疸を発症して病院で診てもらったところ、即入院、となったとのことだった。
お正月に訪ねたときは、童謡を歌ってみせるユーキに負けじと?「♪たんたんたぬきのきん○まは〜風もないのにぶ〜らぶら〜♪」と突然歌いだしてみんなをびっくり、笑わせたおじいちゃんだったのに。
今は胃にはガンもできているとわかり、けれども年や体力を考えると手術もできないので、もう先は長くないと医者から親族には言われている、と聞いた。
祖父は、それでも意識はしっかりしていて、私やさとかが会いに行くと目を覚まし、声を出したり首をふったりして反応してくれた。
「闘病記録」と書いたメモの直筆もしているらしく、ベッドの柵の手の届くところに小さなノートとペンがぶらさがっていた。
さとを抱っこしていると祖父が片手を振って招くので、何かと思って枕元の方へ寄っていくと、着ているパジャマの胸ポケットからおもむろに、小さな袋に入った「ひなあられ」を取り出してさとかに手渡してくれた。
おそらく病院のおやつで出されたものだろうが、誰かひ孫でも来たらやろうとそっとポケットにしまっておいたのだろうか。
さとかはうれしそうに受け取った。
それ以来、さとかは家に帰ってもときどき「おじいちゃんがね、ヒナラレ(さとかいわく「ひなあられ」のこと)どうぞ、ってさとちゃんにくれたんだよ」と思い出したように話す。
この出来事を、さとかはいつまで覚えていることだろう。
もしかしたらこうやって会えるのは最後なのかもしれない、と思うとかえって私は何も話すことができなかった。
退室する時、「じゃあおじいちゃんまたね」と言って手を差し伸べると、手のひらをぎゅっとにぎり返してくれた。
痩せて、細く乾いた手だったが昔と変わらない、大きな手のひらだった。



祖父は大正生まれの84歳、ねずみ年生まれ。
私は小学校1、2年生の時に、一緒に暮らしたことがある。
祖父の印象をひとことで言えば、ギャンブル好きの大酒飲み。
群馬というとギャンブラーの街、なのだが、伊勢崎ではオート(レース。バイクの)、桐生ではボート。
仕事が終わって夕方になると、スーパーカブにタバコをくわえながらまたがって、さっそうと?出かけていった。
青年時代に戦争を体験し、白い水兵服を着て大きな船の前で撮った祖父の写真を私は見せてもらったことがある。
「おじいちゃんは、頭が良かったから船に乗れたんだよ」と自慢そうに話していたこともある。
他の同級生たちは陸地で参戦した人が多かったのだが、祖父は船に乗って海をまわり、実際に砲火を交えた経験はなかったようだ。
その後戦争が終わると祖母とは近所同士のお見合いで結婚し、畑をやりながら工務店をおこして生活を立て、3人の息子を育てた。
私が一緒に暮らした時もまだ現役で仕事をしていて、コンクリートをこねたりブロックを積んだりしていた。
太いズボンに足袋の格好で働く祖父は、日焼けをしてたくましかった。
夜は毎晩晩酌。
いつまでも夕食の片づけを終えられない私の母は常にいら立って、それが不仲の原因のひとつにもなり2年で世帯を分けることにもつながったのだろうが、小学生だった私は酔った祖父と話すのも、特別な感情はなくそういうものだと思って眺めていた。
祖父は酔うとよく大きなことを言った。
「今度な、おじいちゃんが○○を買ってやるからな」
「ノリコはな、おじいちゃんの自慢の孫だ。おじいちゃんの孫だから背も高いし勉強だってよくできなきゃだめだ」
「おじいちゃんはな、村で一番足が速かったんだぞ」
本当だかどうか。母は「またおじいちゃんは酔うと大きいことばっかり言って」と陰でぶつぶつ嫌な顔をしていたし、私もその板ばさみで複雑な思いを感じながらも、祖父のそういう言葉に励まされ、ときどき思い出してはよりどころにしていたのかもしれない、と思うこともある。



私はできれば祖父に聞いてみたかったことがある。
それは、戦中戦後と生きて、どんな気持ちを持っていたのか、ということだ。
今になっても居間のかもいに額に入れた天皇陛下と皇后の写真を立てかけている祖父。
戦時中は、生粋の軍国少年だったに違いない。
それが、戦後は田舎で仕事を始め、半生を畑と工務店とギャンブルで過ごし、時代物の小説を読むのも好きで、余生は老人会で水墨や書道を趣味にして暮らした。
水墨画や習字は孫の私から見て全くの取るに足らない(ごめんね、おじいちゃん)ものだったが、それでも何かすることを求めて学んでいたのは、祖父が心からそうしていたことだったのだろうか。


戦争当時の少年や青年は、いろいろな話を読んだり聞いたりすると、簡単に言えば2種類の人に分かれているように見える。
バリバリの軍国主義だったが、戦後の思想の転換で生きる目的を見失ってしまった人。
戦争なんて、と戦時中から考えていて、終戦後の民主主義に希望を感じた人。
私の祖父は、いったい当時どんなことを思い、考え、戦後を生き抜いてきたのだろうか。
人が再生をするのに必要と言われる、怒り、絶望、受容、希望という道のりを、やはりたどってきたのだろうか。


私とまっすぐに血のつながる、最後の戦争を体験した世代だから、孫の私はそういう祖父の体験をしっかりと聞いておきたい、という気持ちがあった。
けれども、親族だからこそ、その人の中心に関わるような深い話は聞きにくい、聞く機会が持てない、ということもある。
父も、家系とか、昔の話を本にでもまとめれば?と言ってみたこともあったけど、そんな、話をするほどのことでもないし…とさらっと流れてしまったなあ、と話していたこともあった。



たいした経験でもないかもしれない、けれどもごく普通の一個人がどんなふうに生きてきたか。
そういった自分やその子どもにつながる記憶は、やっぱりその多くは流され忘れられ、うずめられていくしかないのかな。
私は記憶にあるかぎりの祖父の姿を、いずれ自分の子どもたちに、できるだけ話すことがあるのだろうと思うけれども。