感動は、1点に集約されるのだ。



エリーゼのために」の最後の「♪レドシラ〜」は
なぜそれまでの「ミ」ではなくて「レ」なのか。



ショパン「革命」のクライマックスの和音の連なりは
どうしてあんなにたたきつけられるような終わり方なのか。


ほか
月光も、幻想即興曲にしても
途中、はっと思う変化がある一小節があり
その部分だけのために他のすべてが存在していると思わせるほど
そこが感動の中心であり、そこを弾く恍惚に指が震える、のである。



人生もたぶんそうで
茨木のり子さんだってこう言っている。
「指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
(中略)
<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
・・・(後略)・・・」
1958年、32歳で発表。



ときどき、そんなこんなについて考える。